相手を知りたかったら話そうよってことですよね?


私の見ているあなたは、あなたではない何か - 深く考えないで捨てるように書く


↑の記事を読んで、記事内容にほぼ同意なんだけどちょっと「それでもそれだけじゃない」と思うことがあったんで書いてみる。


『 日常の生活の中では、面と向かって議論するとか、意見交換するとかいう機会はあまりない。むしろ、なにげない普通の会話の中で「あ、この人こういう人なのか」と気づいたり、ちょっとした行動や表情で「こういう時はこういうふうに思う人なんだな」と思ったり。そういう小さな事柄で思い込みを修正していく場合のほうがずっと多いように思う。』


うん、私もそう思う。で、ネットでの文章だけでの交流では限界が出るだろうっていうのも確かにそうだと思う。けれど、私はネットでもそういった修正は可能だと思うんだよね。ただ、相手がなんかかんかいろいろと書いてないとそれは無理だというのもわかってはいる。

つまり、たとえば誰かが自分の意見などをブログで書いたら、それに対して「この人はそういう考えをする人なんだ」と思うのはあたりまえに起こる。だけど、その書いた人がブログだけじゃなく、他にもmixiだとかミニブログだとか誰かの掲示板だったりとかtwitteだとか、書いたことの補足を別の場所で書いたり、あるいは同じ場所で補足として書いたり、あと、その記事に寄せられたコメントに対して「これはどういうことですか」と問われて「こういうことです」と答えて、双方納得いくまで議論している様子とかを見て、それで「こういう人」というのを「もしかしたらこういったふうな人でもあるかも」という修正はされることもあるんじゃないかなあって。これって、さっきも引用した日常生活で起きているようなことがネット上でも起こりうることなんだと思うんですけどね。

日常生活でも、必ずしも議論してくれる人とか意見交換してくれる人ばかりじゃないと思うんですよ。なにげない会話を苦手とする私なんかもいるわけですから、私はどっちかってーと日常生活では家族以外の人には「こんな人」というレッテル貼られていると思います。つーか、本当にレッテル貼られてます。(笑)

仕事でも職場の人にレッテル貼られてましたしね。「おだやかでおとなしい人」ですって。旦那や息子に言ったら「えーどこがー?」って言われちゃいましたよ。

ネットだと読んでるだけじゃやっぱり相手のことはわからないし、日常生活では相手の言ってることだけ聞いてるだけじゃ相手のことはわからない。つまりはとことん相手と話し合うことが、一番相手を知る近道なんだってことなんでしょう。それは、日常だろうがネットだろうが、どっちも同じなんじゃないかなあって私は思います。