はしごたんさんへの手紙 - 月がでたでた月がでた


もと記事のはしごたんの記事がもうないんで、比べて読めないということもあってまたしてもあさっての方向なこと書くだろうけど、ともむんさんの記事だけでつぶやいてみる。

前から非コミュと言われる人たちの書いているものを読んできて、私から見れば全然非コミュじゃないじゃんと思ってきた。リアルはどうあれ、ネットでは全然非コミュじゃないって。たぶん、非コミュの人たちって自分勝手な人たちじゃないんじゃないかな。だって、非コミュといわれる人たちって気持ちのいい付き合いをいつのまにかちゃんと築いてるもの。私のほうが充分非コミュじゃないかって。

私のほうこそ築きあげた交流をいつもぶち壊してるからねえ。

まあ、そんな私でも辛抱強いごく少数の人のおかげで何とかやっていけてるんだけど。


『「目的」によって「作り上げた」ものでなく、「知らぬ間に出来上がっていた」という「結果」なんです。


そして、ワタシ自身その「結果」をとても「大切な存在」として自分の中に位置付けています。

実生活においては、相変わらず非コミュですが。しかし、WEB上で「出来上がっていた」「大切な存在」は、あきらかにワタシの実生活にもいい影響を落としています。「非コミュ」卒業の時が来るかどうかはわからないし、おそらくきっと一生ついて回ってくるとは思うのですが、もしかしたら今後「とても軽度の非コミュ」くらいになら到達することがあるかもしれません。』


私も「結果」を「大切な存在」としたと思っているつもりだった。けれど、その「大切な存在」をどうしても試してしまうところがあり、結局は大切な存在をことごとくなくしてしまった。もちろん、残ってくれた奇特な人もいる。でも、私は本当にそういった残ってくれた人のこともちゃんと「大切な存在」だと心から思ってるんだろうかって、自分の気持ちを疑うこともあるのも事実。本当は私は大切に思ってないんじゃないかと怖くなる時がある。どうしてみんなあんなに自信があるんだろうって。自分の大切なものに自信があるんだろうって。私は常に自信が持てない。どうしても自信が持てない。その自信が持てないことで、やっぱり私は誰の事も何の事も大切に思ってるわけじゃないんじゃないかと。


『でも、ワタシから見れば逆に「はしごたん」というひとつのスタイルを打ち立てている*3はしごたんさんは羨ましい存在でもあるんです。あちこちで、「はしごたん」という語を見かける度、そう思います。

ワタシがどんなに頑張ってエントリを書いても「tomo-moon?ああ、あれね。別にどうでもいいや」としか受け止めない人はたくさんいるでしょう。でも、そういう人達からはしごたんさんは「はしごたんはやっぱり違うよな」と評価されている背景もあるように見えます。でもワタシはそれはそれで当然のことだと思うし、今後もはしごたんさんのエントリを、自分の視点の範囲では書けない文章として(当然良い意味での)興味を持って読ませていただきたいと思っています。』


たぶん、「はしごたん」というキャラはもっとも成功したキャラなんじゃないかなあ。ちゃんとしたキャラ立ちがなされていて、しかも他人とも交流ができ、いいも悪いも注目を浴び、「はしごたん」の一挙一動をどんな目であれ楽しみにしている人々がいたという。ただ、今現在は「はしごたん」という名前は捨てたようだけど、結局はまた似たようなキャラで書き出し、そしてまた独自の世界観を打ち立てている。今のはしごたんにもまだまだ多くの人が注目しているのがそれだから。

でも、ともむんさんも私にとってはともむんさんがはしごたんに向けた目と同じ目で見てるんだけどね。結局ははしごたんもとむもんさんも他人を大切にする人たちだったということで。それだからこそ、今の私には多くの人は注目はしない。もちろん誰一人とは言わない。密かに読んでくれている人はいるみたいだし、それはそれで嬉しいんだけど、やっぱり私はブクマなんて稼げないし、稼ぐためのものだって意図して書くこともできないから。

もし、これから、そうだなあ、50以上、いや100以上のブクマがつくことがあるとしたら、その時はこの日に書いた自分の日記で感慨深い日記でも書くことにしようか。100だって、そりゃ無理だ。今までにそんなとんでもない数字なんてついたことないもんねえ。でさ、こういう「○○ブクマついたら」と書いたら、とたんに同情票とかついたりしちゃうんだよね。そういうの増田で経験したから。あ、あの記事書いたの私です。(どの記事だよw)