わたしに書かせる人

昨日の記事の続き。

椎堂さんにこんな@をもらった。

『引用記事読んで共感しました。自分は作品を読んで貰う事よりも、それを介して相手と交流する事にオンノベ活動の主眼を置いているなーと改めて思いました。感想欲しいなんて贅沢ですけどね。』

昔から椎堂さん(zerozeroさま)の日記などを読んでいて、彼女が交流を大切にしている人だというのはわかっていた。だから、交流に関して不義理なことをしているような人に対してはかなり辛らつな意見とかをしていたのも確か見受けられたことも覚えてる。その一環で私が今でもよく覚えているのが、私がとある素材屋さんから「死ね」メールをもらった話をして、それに対して真相を確かめるべきだというようなことを意見してくれて、そのおかげでメールはその素材屋さんからではなく、素材屋さんを騙った人からのメールだったことが判明したことがあった。もし、あの時に椎堂さんに話を聞いてもらわなかったら、私はその素材屋さんと誤解から酷い決裂をしていたはず。まあ、その後に私はその重要性をまったく学習してなくて、そのせいで何度か大切にするべきだった交流をひどい決裂に導いてしまうことになるんだが。

私が、プロの作家としてやっていくつもりでいるのなら、あまり読者との交流というのは考えない方がいいのかもしれないと今は思っていて、ちょっとやり方はマズイにしても、私が他人と距離を持って接することはそんなに悪いことではないとは思う。だから、私に好意を寄せてくれて交流を望んでいる人に対して冷たく突き放すのはそれはそれでアリだろう。だが、私はたぶん作品を読んでもらうよりもその作品について楽しく話すことが一番望んでいるのではないかと思った。そのためには、人との繋がりをもっと大切にしないといけないということだ。別にいいことばかり言ってほしいというわけじゃない。自分の書いたものに対してネガティヴでもいい、どう思ったかを聞きたいということ。まあ、あまり議論めいたことはしたくないんだけどね。それは梓さんの拉致問題関連の時にほとほと疲れ果てて、私には議論は無理だと悟ったから。ネガティヴ意見はそれはそれで後に参考にしてそれを生かしてまた書くということはするけれど、それで議論ということはあまりしたくない。まあ、私は「でも私はこう思うのです」とは返すとは思うけど。で、椎堂さんがこう言っているんだけど。

『極端な話、別に作品の感想でなくてもいいような面もあるかもなあ。それが一番嬉しいのはあるけど、人と出会いたいというか、読んで思い出した身の上話とか、友達の話とかでも嬉しいし。』

創作する人の中には、作品とは関係ないことは聞きたくないという人もいる。でも、私は違う。小説だけに限らず、日記とかでも自分のを読んだ誰かが「ああ、そういえばこんなこと思い出した」とか、自分語りをしてくれるのが私もとても嬉しい。まあ、私自身も誰かが書いた日記とかコメントで、自分語りをおっぱじめてしまうところがあるんで、同じような考えを持っている椎堂さんみたいな人がいることは本当に嬉しく思う。とはいえ、私たちのような考えが正しいというわけじゃない。それ以外の人のことだって認めないわけじゃない。ただ、自分の書いたもので自分語りをされるのが嫌いだっていう人が多いと、私たちのほうは「書くな」と言われて肩身が狭くなるよなあと。私なんて、書かれたくないという人の書いたものほど自分語りしたくなるほうなんで、私としてはとても不本意。けれど、書かれたくない人からすれば、私のような存在はとにかく誠意のない嫌な人間ということになる。

それにしても、椎堂さんの言葉はやっぱり私にとって何か書かせる力があるよなあ。ほんと、彼女が「書かれてもいいよ」という人でよかったと思う。

『学生時代に、友達に作品読んでもらって「面白い」とか「今回のは冗長」とか言われながら、どうやって読者モテしようかと頑張って書いていた感覚で、オンノベやりたいんだろうな。目の前の読者にウケればそれでいいという。』

『極めてササヤカにして、極めて贅沢な運営方針。大多数の読者さんにすれば、さっと読んで、面白い、つまんない、って思うだけで、特にリアクションなんかしない、赤の他人の距離が一番いいんだから、交流したい派の人にしか求めないけど。』

『でもそのごくごく一部の人に支えられて今まで書き続けられてるんだという実感は常にある。その人たちにまた読んでもらいたくて新しいページを書く力が出るのだと思う。つまり天慈さんのいうモチベーションか。』

私も子供の頃はまず第一に自分が萌える内容やキャラを書くことが第一ではあったけど、読んでくれる友達の欲求も叶えるところはあった。感想もらうとそれにそうものを書いたりとかした。そのためには読者が身近にいて見えないといけない。私は一時期そういうのじゃないほうが小説書いたり日記書いたりするのに有利でたくさん書けると思い込んでいたんだ。でも、それは違ってた。やっぱ、見える読者がいないと私は書けないということに気づいてしまった。この人が読んでくれる、そして何か言葉をくれるから私は書いていくことができるんだって。そして、私は常に「この人」というのを確保してきている。天慈で無理なら別の名前で。そうやって私は一人とか二人とか本当にごく僅かでも、確実に読んでくれて必ずなんらかの反応を返してくれる人を見つけてこれたから、ここまで書いて来れたんだ。私はこれからもその僅かな「見える読者」を大切にしなくしてはならない。手放してしまった人ではなく、今の読者を大事にしていかなければ。

そうしなければ、私はきっとずっと書いていくことは無理なんだろうな。それにしても、椎堂さんには昔も今もいろいろ気づかせてもらって、ほんとありがたいことだなあと思う。